
石鹸食べても死ねんよ
街でディスクユニオンの袋を見かけると、どうにも視線を奪われてしまう。あれは一体どういう現象なのだろう。
赤と黒の鮮烈な袋の内側に、どこの国の、誰の何という盤が収められているのか。
想像するだけで私の胸はソワソワと波立ち、落ち着きを失ってしまうのだ。
街ですれ違ったその人に、袋を指差しながら思い切って声をかけてみたい。
「それ、何を買ったのですか?」
と爽やかに尋ねることができたなら、どれほど楽しいだろうかと想像する。
しかし私には"変なやつだと思われたくない"
という凡庸な自制心がしっかりと働いてしまう。
こういった頭の中で繰り広げられる大格闘劇、ある意味で"良い葛藤"と呼ぶべき情熱の無駄遣いを引き起こすディスクユニオンの袋は、本当に恐ろしい魅力を秘めていると言わざるを得ない。
もしや、私の見ている世界においては、あの赤と黒の配色こそが最も輝きを放っているのではないか。
ふとそんな仮説を思いつく。
しかし冷静に考えてみると、決してそんなことはなかった。
その明白な例として挙げられるのが、夜闇を疾走するタクシーだ。あれはまったくもってゴキブリに酷似している。黒光りする車体、ギラギラとした嫌な威圧感。東京という巨大都市の醜悪なエキスが、あの夜のタクシーの中に濃縮されているのではないかという錯覚に囚われるのだ。ただ、私のこの感情について誰かに共感してもらったことは、今日に至るまで一度としてない。
秋が深まると、私の感性は無駄に研ぎ澄まされていく。世界が勝手にドラマチックに色めき立ち、こちらを揺さぶってくるのだ。
感受性が豊かになるのは表現者として幸せなことだと思うが、同時に虚しさや怒りといった余計な感情まで過剰に拾い上げてしまうので
秋は一長一短であると感じる。
路頭で自分勝手に悶々とし、赤と黒の袋にときめき、夜闇を疾走するタクシーを不吉な黒虫に見立てては一人で憂鬱になる。そうした自作自演のセンチメンタリズムが極大に達した時、私の頭にある一つの格言が、唐突かつ厳かに降臨するのだ。
「石鹸食べても死ねんよ」
いつぞやの秋、世界のすべてが嫌になり、悲劇の主人公気取りで風呂場の石鹸に齧り付こうとしたことがあった。私は、若いなりに疲れ果てていたのだ。今思い返せば愚かなる妄想の産物である。
しかし土壇場で脳裏をかすめたのは、死への恐怖ではなく、"石鹸などを口に入れたところで胃の中が猛烈に泡立つだけであり、死ぬどころか酷く間抜けな顔で悶絶するはめになる"という、意外と冷静な考えであった。
人間、どれほど秋の深まりに感傷を拗らせようと、タクシーをゴキブリに見立てて世界の不条理を呪おうと、石鹸一つ食うて綺麗に消えてなくなることすら出来はしない。
現実はいつだって拍子抜けするほど生々しく、阿呆らしく、そしてどこまでも頑丈に続いているのだ。
ならば仕方がない。私は今日もこの無駄に肥大化した自意識を抱え、阿呆のように秋の街を練り歩くほかない。明日もまた、あの赤と黒の袋を下げた怪しい誰かの後ろ姿を、ただじっと見送りながら。
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